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Épisode

❖中学生で夢中、渋いドラマ

星野知子が長岡市立南中学校時代に夢中になったのは、当時、TBS系列で放送されたテレビドラマ「木枯し紋次郎」だった。のちに俳優になってから、紋次郎の役を演じた中村敦夫と夫婦役で共演が決まったときに感激したが、実際に会った中村の印象について「素敵なんです。でも普通にしゃべる方で。私はあまりしゃべらないで『あっしにはかかわりがないことで』っていうタイプが好き」<脚注1>と、小説家の藤田宜永との対談で紋次郎へのあこがれを明かしている。

 

<脚注1> 藤田宜永著『愛に勝つ 1・2・3(アンドゥトワ)』集英社、2005年

星野知子(右)と中村敦夫(左)。ドラマ「妻は霧の中へ」の撮影風景

​中村敦夫さん(左)との撮影風景

❖革ジャンで通った高校生

新潟県立長岡高校には、越後長岡藩の藩校崇徳館の遺風があった。山本五十六の出身校でもあり「剛健質樸」の校風で知られた。在学当時、同級生の400人中女子は100人だった。星野知子は、米国の俳優チャールトン・ヘストンに熱をあげるような「生意気な変わり者で、同級生の男子は眼中になかった」<脚注2>と語っている。その半面、受験校ながら学校行事が盛りだくさんで、文化祭では「女装美人コンテスト」まであった。星野知子は、同級生の男子に背中の開いたワンピースを貸し「(女子の)みんなで化粧も入念にした」ところ優勝、その男子は東大へ進学したという<脚注3>。高校時代には、長岡市立互尊文庫へ読書に通うことが多かった。当時、互尊文庫に司書として勤めており、のちに河井継之助記念館館長に就任した歴史家の稲川明雄は「長身に黒い革のジャンパーを着て、自転車で図書館へさっそうと通ってくる目立つ女学生だった」と、私服が許された高校時代の星野の印象を回想した。

<脚注2> 朝日新聞社編『新人国記8〜新潟県』朝日新聞社、1985年

<脚注3> 週刊朝日MOOK『司馬遼太郎Ⅱ』(星野知子「私と司馬さん」)朝日新聞出版、2007年

革ジャン
『装苑』(1980年10月号)に掲載された星野知子の記事

デビューから半年、長岡に帰郷したときの同行取材記事(『装苑』1980年10月号)

チャールトン・ヘストンから星野知子へ贈られたサイン入りプロマイド写真

​チャールトン・ヘストンさんから星野知子に届けられた写真

❖始まりは『装苑』から

大学進学で東京暮らしを始めた星野知子にとって、もうひとつの居場所になったのが服飾誌『装苑』だった。『装苑』はファッションデザイナーへの登竜門で、森英恵、コシノジュンコや山本寛斎はじめ第一人者の作品を掲載していた。それだけに当時の編集長の執行雅臣はじめ編集部の目は厳しかった。NHK朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」でヒロインデビューが決まった1980年の『装苑』4月号は、「装苑モデル・星野路子から、女優・星野知子へ」<脚注4>と題した特集を組んだ。そのなかで執行は、星野との出会いについて「星野路子さんが、初めて文化出版局に姿を見せたのは、’76年夏でした。その日は、装苑モデル審査会が開かれ、審査員たちは、飛び抜けて背の高い、ほおのふっくらとした女子大生に注目しました。最後まで残ったその女子大生は、〝大学には入ったけれど、もう少し自分の可能性を試してみたい〟と明るい瞳でこたえた」と記している。NHKのドラマが放送された1980年4月から番組終了後の12月まで、『装苑』は9号にわたって星野知子を特集し、うち6回の表紙を星野の写真で飾った<脚注5>。大学の卒業式の様子、ドラマ撮影の合間に星野がつづった日記、ドラマで夫婦を演じた俳優滝田栄との対談や、番組終了後に星野自ら欧州で撮影した写真展まで見開きページの記事を連載し、星野知子の新たな門出を応援してくれた。

<脚注4> 『装苑』文化出版局、1980年4月号

<脚注5> 『装苑』文化出版局、1980年4月・6月・7月・8月・9月・10月号の各表紙 Cover Photo >

装苑
星野知子(左から2人目)をモ��デルに撮影する立木義浩(右端)
星野知子の表紙グラビア「装苑」(1980年4月号)

『装苑』フォトグラファー・立木義浩さん(右)による星野知子の撮影

❖お国言葉とデビュー作

星野知子の俳優デビュー作であるNHK朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」のオーディションの最初は、審査員の前で1分間ほどの短い文章を読むことだった。本人はそつなく読んだつもりでも、発音に新潟弁のアクセントが混じった。「あれじゃちょっとねえと、協議したんだよ」と、あとになって担当プロデューサーから聞かされた。オーディションで次へ進めたのは、「ドラマのセリフは徳島弁だから、まあ大丈夫だろう」という理由だった。星野は自身のエッセイのなかで「もしドラマの舞台が東京や神奈川だったら、きっとわたしの人生は違っていた」と回想した。結局、新潟なまりが抜けないまま徳島弁を猛特訓し、標準語はなおさらあいまいになった<脚注6>という。

 

<脚注6>  星野知子著「人工音声」(『かまくら春秋』所収)かまくら春秋社、2024年5月

なっちゃんの写真館
「なっちゃんの写真館」のテレビ台本
「なっちゃんの写真館」テレビ台本

夏子(なっちゃん)が最初に登場する台本

寺内小春 脚本・​星野知子 蔵

❖徳島は「第二の故郷」

NHK朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」を撮影した徳島県の印象について、星野知子は「開放的な南国の人情に心がなごんだ」という。雪国の新潟出身であることとの対比だけでなく、星野知子が演じた立木香都子の人柄が明るく気丈で性に合っていた。「メロドラマっぽいものより好き。いい女ぶったり、恋に悩んだりするのは分からないし照れる」<脚注7>と語っている。星野にとって徳島県は「第二の故郷」と、テレビ出演や講演で話してきた。2009年放送のNHK朝の連続テレビ小説「ウェルかめ」では、徳島県を舞台にした作品に再び出演し、主役の倉科カナの成長を見守る敏腕編集者の役を演じている。

 

<脚注7> 朝日新聞社編『新人国記8~新潟県』朝日新聞社、1985年

�星野知子(左)と立木香都子(右)。ドラマ「なっちゃんの写真館」の撮影で

ドラマの撮影中、立木香都子さんと

❖サザエさんとドヌーヴ

「なっちゃんの写真館」でのデビュー直後から、星野知子のつぎの出演作が注目されていた<脚注8>。まもなく、テレビドラマの「サザエさん」と、橋本忍監督の映画「幻の湖」への出演が発表された。1965年に江利チエミが演じてから2代目となるテレビ実写版でのサザエ役は、意外な印象で受けとめられた。映画評論家の内海陽子は「かなり違和感を覚えた」<脚注9>と回想している。星野本人は、番組制作者から「長谷川町子原作のサザエは八頭身ではつらつとして、古い女性像を変えた。それを演じてほしい」と説明された。内海は、「色気より食い気、と言わんばかりの方針をきっぱり表明する美人女優はおかしく、確かにサザエに向いている」とも。「大人の女優の色香というのは、それがほのめかされるところに漂う」と、星野に異色な魅力を見つけている。カトリーヌ・ドヌーヴの映画「しあわせの雨傘」を引きあいに、「ドヌーヴのとぼけた色香はさすがで、ぜひ星野知子に会得してもらいたい」と書いた。この「サザエさん」では、ドラマ「太陽にほえろ!」の刑事役を降りたばかりの小野寺昭がマスオ役を演じて星野とコンビを組んだ。作家・文化人が登場する演出も好評で、4年間に9本が放映された。

<脚注8> 残間里江子・構成「立木義浩写真館」文藝春秋、1980年7月号

<脚注9> 内海陽子著『女優の肖像 その1』アマゾンキンドル電子版、2019年(秋山庄太郎・撮影 / 内海陽子・文「女優の肖像」改題)

サザエさん
ドラマ「サザエさん」に出演した星野知子(中央)遠藤周作(左)加藤芳郎(右から2人目)市原悦子(右端)

星野知子(中央)ほか、遠藤周作さん(左)加藤芳郎さん(右)筒井康隆さん、阿刀田高さん、林真理子さん、市原悦子さん(右)など数多くの作家・名優が出演

ドラマ「サザエさん」の一人二役を演じる星野知子

​サザエの一人二役、文壇バーのマダム

❖ミュージックフェア、出演秘話

星野知子が司会としてフジテレビの看板音楽番組「ミュージックフェア」に初出演したときのゲストは、オリビア・ニュートン=ジョンだった。星野知子は、オリビア・ニュートン=ジョンから「あなた今日が初めてなんでしょう。がんばって!」と励まされたエピソードをエッセイに綴っている。また、番組の常連だった美空ひばりの歌唱を間近に聞いて心揺さぶられたことが一番の思い出と、自著に記した<脚注10>。身長171センチの星野知子と小柄な美空ひばりとでは20センチ近い差<注釈1>があり、美空から「あら、また大きな人が来たわねえ」と笑われた経験があった。星野知子は、テレビ画面に映るときに美空ひばりのほうが見上げて話さなければならないことを「心苦しかった」と回想し、できるだけ低い靴を履き地味な服にしていた。「たぶん私はひばりさんに嫌われていた、と思う」ともエッセイに記している<脚注11>番組の音楽監督を務めた作曲家の服部克久は、初めてスタジオで会ったときのイメージをこう書いた。「背のひょろっとした、優しい声の、どうかするとすぐ傷つきそうな、目のクルクルッとした女の子、ふとしたときに見せる、いたずら好きと、人の良さがミックスしたような笑い顔が、とても印象的だった。もしかすると、自分をシッタゲキレイして、浮かべるあのアルカイックな笑顔。ポール・モーリアが、いみじくも言った。『トモコは、優しさと、強さのまじった、女性だね』と」<脚注12>——。

 

<脚注10・11> 星野知子著『デンデン虫がふりむけば』集英社、1997年​

<脚注12> 服部克久「僕の女ともだち」ミスター・ハイファッション所収(文化出版局)、1983年夏号

<注釈1> 星野知子の身長は、実際には171センチある。だが、デビュー時の1970~80年代前半には、芸能界でも170センチ以上の「高身長」は不利になるとみられ、プロダクションの判断で当初167センチと公表された。その後、1990年代には170センチまで修正されている。

ミュージックフェア
星野知子(左)とオリビア・ニュートン=ジョン(中央)。「ミュージックフェア」の収録で撮影。

​星野知子(左)が司会者初登場の日、オリビア・ニュートン=ジョンさん(中央)と

「ミュージックフェア」の司会者・星野知子
星野知子の直筆サイン/ 1983年

6年間出演した「ミュージックフェア」

❖辛口コメントに電話殺到

星野知子が1987年に、プライムタイムの19時台に放送されるニュース番組「ニュースシャトル」(1989年4月から18時台に変更)に登場すると、芸能人キャスターの先駆けとして注目を集めた。その半面で、星野は周囲から「女優に戻れなくなる」と大反対されていた<脚注13>。ただひとり、星野が相談した脚本家・映画監督の橋本忍だけが賛成し、「君の心はとうに決まっているはず、と言われた」と回想している。朝日新聞編集委員だった佐藤国雄は、朝日新聞の『ひと』欄に「さわやかだが、踏ん張ってるという感じも」と当時の印象を書いている<脚注14>。星野知子本人は、「私の感じたことが、見ている人の心に空気で伝わっていくような、そんなムードが出せれば」と考えていた<脚注15>。米国とソ連が核兵器を盾に対立した東西冷戦の時代、米ソが大金を出し合って氷河に閉じこめられたクジラを救うという美談ふうの話題に対し、「それだけ協力できるなら、クジラじゃなくて人間を救うために協力すればいいのに。まあ、日本人はクジラを食べる民族ですからね」と辛口なコメントをしたところ、テレビ局へ賛否両論の電話が鳴りやまないこともあった<脚注16>

 

<脚注13> 藤田宜永著『愛に勝つ 1・2・3(アンドゥトワ)』集英社、2005年

<脚注14> 朝日新聞、『ひと』欄「ニュースキャスターもこなす女優」、朝日新聞社、1987年10月

<脚注15> 読売新聞、『この人』欄「素直さと歯切れのよさ」、読売新聞社、 1987年9月26日

<脚注16> 朝日新聞新潟支局編、『新潟よ~望郷とメッセージ』「自分の中にさまざまな自分が」、恒文社、1999年

星�野知子(左)と脚本家の橋本忍(右)

​橋本忍さんと星野知子

テレビ朝日の「ニュースシャトル」でメインキャスターを務める星野知子(右)

​「ニュースシャトル」のメインキャスター

❖辣腕プロデューサーが見た星野知子

1987年当時、ドラマ・映画に出突っ張りの星野知子にニュースの素質を見抜いたのが、テレビ朝日の辣腕プロデューサー、一杉丈夫(元全国朝日放送取締役)だった。フジテレビの看板番組「ミュージックフェア」の司会をすでに6年務めて安定感を増した星野知子を、新報道番組「ニュースシャトル」のMCに引き抜いた。一杉丈夫は、萩本欽一が〝視聴率100%男〟と呼ばれた「欽ちゃんのどこまでやるの!」を手がけた制作者。星野知子がなぜ、ニュースなのか? その事情は、星野の著書に一杉丈夫が寄せた解説文<脚注17>に詳しい。「新しいニュース番組のキャスターとして星野さんに白羽の矢を立てたのは、ある種の風格を既に持っていながら、番組の中ではトチろうが何しようが、慌てず騒がず、それでいて妙な説得力と、何よりも清々しさを持っていたから」と書いている。一方、星野の〝新鮮さ〟に深みを加えたのが、一杉のもとで番組を担った上松道夫(元テレビ朝日取締役)だった。のちに「報道ステーション」を立ち上げた上松と、一杉は、「女優如きにニュースが分かってたまるか」という、社内外のきつい逆風の盾になった。一杉は、ニュースを経てドキュメンタリーに取り組む星野について、「思えばそれは、ニュース番組の中で見せた彼女流のやり方と変わりなく、女優でありながら人前でのパフォーマンスが嫌いで、派手さがやたら要求されるテレビの中にあって、本当の美しさと優しさを見せてくれていると思う」と、一文を寄せた。

<脚注17> 一杉丈夫著「星野知子さんへの片想い」、星野知子著『トイレのない旅』講談社文庫・解説、1997年

ニュースシャトル
「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出演した星野知子(左)、萩本欽一(中央)、真屋順子(右)

「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出演した星野知子(左)、萩本欽一さん、真屋順子さん(右)

「ニュースシャトル」メインキャスターを務める星野知子

​「ニュースシャトル」のひとこま

❖アマゾンの秘境へ飛びこんだわけ

ニュースシャトルが終了した1989年9月、星野知子のもとに、テレビ朝日のネイチャリングスペシャル「濁流に乗って~欲望の大河アマゾン」を制作するため、ブラジルのアマゾン川を50日間にわたってさかのぼる企画が持ちこまれた。再び大胆な転身に周囲は心配したが、「狭いスタジオの中で秒単位の仕事に疲れていたから、魅力的だった」と引き受けた。星野はのちに、アマゾン秘境の先住民族と寝食を共にし、夜の大河の泥水に入って満天の星空と密林にまたたくホタルの群れを見たときに「アマゾンに受け入れられたと思った」と回想している。この番組が放送されると、日本民間放送連盟賞の教養番組最優秀賞をはじめギャラクシー賞奨励賞に選ばれるなど評価は高かったのだが、周りからは「今度は冒険家になってしまうのかとか、いろいろ言われた」<脚注18>という。

 

<脚注18> 朝日新聞新潟支局編『新潟よ~望郷とメッセージ』恒文社、1999年

アマゾン
アマゾンでの番組制作で執筆取材をする星野知子。ブラジルで

​アマゾンの執筆取材 / ブラジルで

星野知子著『濁流に乗って〜欲望の大河アマゾン』の原稿

毎日つけた日記をもとに書いた『濁流に乗って〜欲望の大河アマゾン』の元原稿、350枚の綴り

❖お酒の話

星野知子はさほど、酒をたしなまない。ところが、どうやら〝酒豪〟と思われがちだ。そのせいか、酒についてのエッセイ<注釈2>や、広告・対談を頼まれることがある。星野自身は、こんなふうに書いている。「『それじゃ、お酒は強いでしょう』。私が新潟出身と知ってそういう人は、たいてい自分が飲んべえだ。酒処に生まれ育ったからといってお酒が強いとは限りませんよ。私の場合はお酒の味は好きだが、すぐ眠くなってしまってそれほど量はいただけない」<脚注19>——。そもそも星野の父が酒を一滴も飲まず、正月もお屠蘇(とそ)のない家に育った。法政大学に入ってはじめて、学生コンパで〝本物の酔っぱらい〟を見てびっくりしたほどだ。ところが、「そのときは、緊張と恐怖でなんとか平静を保とうとして、かえって『あついは酒に強い』と誤解された」<注釈3>。デビュー後の多忙さから飲む機会はめったになかったが、海外ロケだけは例外で、撮影スタッフと毎食同席すると酒が出る。「おつきあいでいろいろ試したりします。その土地の食べ物に合ったお酒が一番おいしい」と、酒より食優先である。

<注釈2>「酒ひと話」読売新聞日曜版、2009年12月-2010年2月連載など多数

<脚注19>「今酔も楽し東西人気店めぐり」週刊文春、1992年2月27日号 / 「人の間に美しい酒」週刊文春、2009年5月

<注釈3>服部克久の「僕の女ともだち」(ミスター・ハイファッション所収、1983年夏号)は、星野知子をめぐるエッセイ。そのなかで「彼女はあれでなかなか、酒が強いのです。いつか、大阪で、郷ひろみ君も共に、ふぐ屋へ行った時も、ひれ酒を何杯か飲んで、目のふちは、ぽーっと色っぽくはなったものの、どうということはなく、やはり北国の女だなーと思う」とあるのも、なにかの誤解かも。

お酒の話
アカデミー賞

❖日本アカデミー賞受賞の「演技」

映画「失楽園」への出演によって星野知子が日本アカデミー賞の助演女優賞優秀賞を受賞したあと、小説家の藤田宜永との対談で「失楽園の主人公の妻の役というのはどうだったんですか。あれで賞をお取りになりましたよね」と尋ねられた。星野知子は、「私、どうやら芝居をしていないときがいいらしいんですよ。自分で考えて演技しているときはダメなんです」と明かしている。森田芳光が監督した撮影現場について、「いいのかしらって感じですよね。困ったな、どうしようかなって思っているところをカメラがうまく拾ってくれた。何か自分ではそんな気がするんです」と話した。藤田は「自然体がいいんだ。それはやっぱり演技してることになるんですよ」と返している<脚注20>

 

<脚注20> 藤田宜永著『愛に勝つ 1・2・3(アンドゥトワ)』集英社、2005年

映画「失楽園」に出演する星野知子(中央)役所広司(右)木村佳乃(左)

「失楽園」で家族を演じた星野知子(中)役所広司さん(右)木村佳乃さん(左)

❖50歳ぐらいで結婚する気が……

小説家の藤田宜永が「恋のひみつ、愛のかたち」をテーマに女性芸能人などと恋愛観を語り合った対談で、星野知子の結婚観について「俳優さんはダメ。役者さんとして素敵な人も寡黙な人もいますけど、鏡の前で眉毛を描いたりお化粧したりしているというだけで、もう最初からダメでしたね」と明かした。このとき、結婚は最後までとっておきたいといい、「50 歳ぐらいで結婚する気がする。自分で直感できるの。それで恋の時代は終わって、老後に備える」と語っていた<脚注21>。2008年5月に結婚したときのインタビューには「50歳になってごく自然に結婚の道が開けました。いまが適齢期」と答えた<脚注22>

 

<脚注21> 藤田宜永著『愛に勝つ 1・2・3(アンドゥトワ)』「茶飲み友だち的結婚への道」、集英社、2005年

<脚注22> AERA アエラ、「50歳の決断・星野知子"いまが適齢期"」、朝日新聞出版、2008年6月9日

*文中、敬称を略して表記しています。

結婚

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