top of page
「新 鎌倉その日その日」

新 鎌倉その日その日
星野知子の


「春の始動」
啓蟄(けいちつ)という文字を見るとなんだかムズムズする。冬ごもりしていた虫たちがあたたかくなって土から這い出してくる季節。漢字で書くと虫へんのカエルやヘビもその仲間だ。もちろんあちこちで木の芽も顔を出す。やわらかな陽に誘われて、自然はムズムズモゾモゾにぎわってくる。 同じころ、私の鼻もムズムズしてくる。私の場合は花粉症だ。朝起きがけにくしゃみが続けて出ると、あー本格的に花粉症の季節到来か、とティッシュに手を伸ばす。今年の花粉は例年の1.5倍の量で飛散は早く始まったというから先が思いやられる。 でも、春の到来はうれしい。家のまわりではカエルもヘビも出てこないが、寒いうちはいなかったアリやダンゴムシが姿を見せると、お帰りなさいと声をかけたくなる。テントウムシやミツバチ、モンシロチョウも、ようこそ我が家へと出迎える。玄関前や狭い庭で生き物が動きはじめるのは、あたりまえのようだが癒やされる。 ただ、モンシロチョウには困っている。庭のプランターに植えたブロッコリーやルッコラに卵を産み付ける。葉っぱが穴だらけだ。無農薬だから青虫は安心して食べるんだなあ、とそ
2025年3月22日読了時間: 5分


「若布とか海苔とか」
夏の湘南もいいけれど、暮らしてみて思うのは、冬がすばらしい。キリリと冷たい風に青い空。日差しは強く、海は澄んだエメラルド色に変わる。その向こうに真っ白な富士山が眺められるのだから、思わず深呼吸。遠くに住む友人たちには冬に遊びに来てよ、といつも言っている。 ダウンにマフラー、しっかり日焼け止めクリームを塗って海辺を散歩する。サーファーやランナー。はしゃぐ子どもたち。尻尾をふって波を追いかけるイヌ。寒くても浜は元気だ。 2月になるとあちこちで見られるのが若布(わかめ)干しだ。浜に組んだ大きな干し場で、細長い若布が潮風になびいている。 ああ、今年もはじまりましたね。そろそろ若布のしゃぶしゃぶの季節、と思わずにんまりする。沸かした鍋のお湯にヌメヌメした黒い海藻を浸したとたん、目の覚めるような緑色になる。この瞬間、わかっていても毎年感動する。新緑を思わせる色は、もうすぐ来る春を感じてときめいてくる。 今では見なれている若布干しだが、鎌倉に引っ越してきたときは、「なに?あれは!」とかなり驚いた。砂浜に巨大な洗濯物干し場(?)が出現し、ぶら下がっているのは無数
2025年2月21日読了時間: 5分


「干支のヘビの話」
「いやあ、ヘビがいちばんむずかしいんですよ」 毎年干支の置物を送ってくれる陶芸家が言っていた。 12の動物のうちトラやウシ、タツは力みなぎる新年にふさわしい。かわいいウサギやネズミはおだやかで平和な気持ちになれる。ヘビは——、どちらのグループでもない。だいたい姿が決まっていない。のばせば長い棒状に、動けばくねくね、止まればとぐろを巻いたりする。どの形も作陶しづらいというか、焼き物だから鎌首をもたげたポーズだとポキッと折れるリスクも大きい。陶芸家泣かせなのだそうだ。 ヘビは12の動物のうちの真ん中、6番目にあたる。ね、うし、とら、う、と順番が決まったのは、説話によると、神様が「元日の朝、1番から12番目まで挨拶に来たものを1年交替で動物の大将にする」とお触れを出し、全国の動物たちが競争した結果だ。数え切れない動物の中で上位12に入るだけでもすごい。その強豪の中で6番目にゴールしたヘビは結構足(?)が速いわけだ。 この説話を知ったのは4、5才のころだ。私は子どものころよく風邪をひいたり扁桃腺が腫れたりして保育園を休んでいた。何日かぶりに登園すると運動
2025年1月21日読了時間: 5分


「暮らしのメロディで」
うちの洗濯機は、スタートスイッチを押すとメロディが鳴る。モーツァルトの「ピアノソナタ ハ長調」。ドーミソ シードレド。出だしのワンフレーズだ。聞けば「あ、あれね」と誰でも知っていて、ピアノの練習曲でもある。明るくてテンポがいいから、メーカーは洗濯の気分にぴったりと選曲したのだろう。洗濯機を買った当初はスイッチを押すたびに大きな音がしてビクッとしたが、そのうち気にならなくなった。 先日、路地を歩いていたらこの曲が聞こえてきた。近くの家でピアノの練習中だ。瞬間、頭に浮かんだのはエプロン姿で洗濯機のスイッチを押している自分だった。 このソナタはピアノを習っていた子どものころに練習した。だから、ふと耳にすればピアノに向かっている自分がよみがえると思いきや、洗濯機のほうだったことに苦笑した。 音楽は、日々耳に慣れている記憶をよびさます。私の脳には、ピアノソナタ=洗濯機、とインプットされてしまったらしい。 音楽はそんなふうにさりげなく暮らしに溶け込んでいる。 やさしいメロディの「乙女の祈り」も、どこかで聞けば私はゴミ収集車を思い浮かべるだろう。収集日の午前中
2024年12月21日読了時間: 5分


「腕時計の針が」
休日、鎌倉には家族連れがたくさん訪れる。子どもたちが海辺をかけまわったり、小町通りで食べ歩きしたり。元気に動き回る姿がかわいらしくてつい目で追っている。 気がついたのは、小さな腕にはめている腕時計だ。けっこう見かける。カラフルな色でデザインもかっこいい。今は小学生でも腕時計を持っているんだなあ、と昭和に育った私は驚いている。 昔は気軽に買える値段の時計はなかったし、子どもが持つものではなかった。私が腕時計を買ってもらったのは高校に入学するときだ。たぶんどの家庭もそうだったと思う。真新しい学生カバンを持ち、左手首に時計をすると、おとなにならなくちゃという気分になった。もしなくしたら、こわしてしまったら、と最初は不安だった。 そのころ星新一のショートショートが流行っていて、私も夢中になって読んでいた。しゃれたユーモアと風刺、クスッと笑いゾクッと恐くなる不思議な短編ばかり。その中に腕時計がテーマの小説があった。ひと目惚れして買った腕時計を大事にメンテナンスしていた男性。いつも正確に時を刻んでいたのに、旅行に行く朝に時計の針が遅れてバスに乗り遅れてしまう
2024年11月21日読了時間: 5分


「新紙幣であれこれ」
久しぶりに銀行のATMでお金をおろした。もしかしたら、と期待して機械からお札をとり出すと、わ、うれしい。新しく発行された紙幣が混じっていた。 1万9千円おろしたうち1万円札が新紙幣で、千円札は1枚だけだった。宝くじに当たったみたいな気持ち。銀行のATMでもまだ全部新しいわけではないようだ。 20年ぶりの新紙幣発行。発行日の7月3日には大勢の人が行列して両替する様子がテレビに映し出されていた。それから2カ月近くたって、私はやっと手にしたことになる。おや、もうとっくに新紙幣でやりとりしていますよ、とおっしゃる方がどれくらいいるかわからないが、現金を使うことが少なくなったせいで、これまで目にすることもなかった。 どれどれ、家にもどってじっくり観察した。第一印象は、10000と1000の数字が大きくて目立つこと。そのせいかおもちゃのお札に見えてしまうが、これは慣れていないからでそのうち気にならなくなるのだろう。 画期的なのは3Dホログラムだ。1万円札を動かすと渋沢栄一の顔がぐうっと正面を向いてきて目が合う。よくできている。何十年も前、ディズニーランドのホ
2024年10月15日読了時間: 5分


「塩水メダカ」
暑い夏だった。いえ、まだ残暑も長そうだ。今年は厳しい暑さとの長期予報だったから覚悟はしていたが、覚悟したからといって暑さをしのげるわけではない。 人だけでなく自然界もバテている。気のせいかセミの鳴き声も元気がないようだ。庭のヤマボウシは茶色に葉焼けしてしまった。 ペットも大変だろう。犬の散歩は陽がかげる夕方に出かける人が多い。歩道はまだ熱がこもっているから、大型犬は長い舌を出してフーフーがんばっている。 うちは犬も猫もいないが、心配なのは庭の睡蓮鉢で飼っているメダカだ。よしずを掛けて陽をさえぎっているが、20匹はいたのに半分に減ってしまった。 メダカ飼育歴は長い。20年以上前に東京のマンションで飼い始めた。小さな水槽に水温計とフィルター、ヒーターを取り付け、至れり尽くせりの過保護なペットだった。 鎌倉に住むようになり、夫がひとかかえもある素焼きの鉢でビオトープを作った。 備前焼の睡蓮鉢がメダカの住みか 最初は鎌倉特有の遺伝子を持つ「鎌倉メダカ」を飼いたいと思っていた。野生の鎌倉メダカは絶滅しているが、滑川水系固有の純粋な鎌倉メダカと推定される種が
2024年9月10日読了時間: 5分


「たばこ」
晴れた朝にベランダで洗濯物を干す。真っ白なシーツが潮風にはためいて気持ちいい。 ときおりパラパラ音を立ててヘリコプターが飛んでいく。手をふればお互いが見えそうに近い。天気のいい日に空から湘南を眺めたら最高だろう。葉山、逗子、鎌倉の海、江の島を巡って富士山も眺められる。 青空を横切るのは、遊覧飛行のスマートなヘリコプター。夏休みの海の賑わいを伝えるテレビ局のヘリコプター。それに、軍用機もよく目にする。低空で飛んでいるから2機、3機と連なるとあたりに轟音が響く。 有事の際には——、とふと思う。どれだけの軍用機が飛び交うことになるのだろう。8月に入るとそんなことを考える。 太平洋戦争のとき、湘南の上空にはたびたび敵機が飛来したという。鎌倉に住んだ大佛次郎の「敗戦日記」には空襲警報が発令されたことや、高射砲声が窓ガラスを震わせたことがひんぱんに記されていて、鎌倉の人たちの恐怖と不安な日々がうかがえる。 私の生まれ育った新潟県長岡市は、1945年(昭和20年)、終戦の年に大空襲で焼け野原となった。ひと晩で市街地の八割が焼け、1488人の命が失われた。パール
2024年8月10日読了時間: 5分


「ホタル」
初めてホタルを見たのは、7、8才だった。鮮明に覚えている。 私が生まれ育ったのは新潟県長岡市の中心部で、1965年(昭和40年)ころの街中の川はホタルが住めるような環境ではなかった。 夏休みになると、毎年母方の実家でしばらく過ごした。市内から車で30分も走れば田んぼが広がる。祖父の家は山間にあり、近くに雪解け水を運ぶ川が流れていた。 私はひと夏で真っ黒に日焼けした。オニヤンマを追いかけ、目の前をすり抜ける蛇に足がすくみ、近所の子から笹笛の吹き方を教わった。 昔は暑くてもうちわで涼をとるくらいだったが、川に面した部屋は川風が入ってきて涼しかった。私はそこで昼寝をするのが好きだった。 夜も窓は開けっぱなしだった。座敷に布団を敷いて蚊帳を張って寝た。 布団に入ったものの、まだ妹とおしゃべりをしていると、ホタルが1匹、部屋に迷い込んできた。ぽーっと光って消え、またぽーっと光る。 「お母さぁん、お父さぁん、おじいちゃん、おばあちゃん、ホタルがきた!」 蚊帳から飛び出して叫んだ。 ダメだよ大きな声を出しちゃ、ホタルがびっくりするから。そう言われて廊下に出てみ
2024年7月10日読了時間: 5分


「雨傘」
ムシムシ、ジメジメ、そろそろかなあという時期になると、スーパーやドラッグストアでは湿気対策グッズが山積みになる。梅雨入り間近。顆粒状の除湿剤や「水がたまったらおとりかえ」の容器タイプ、引き出し用のシートタイプ。様々な種類の商品は、東京の店よりずっと数が多い。みんな苦労しているのだ。 鎌倉は湿度が高いとは聞いていたが、これほどまでとは思っていなかった。海から入る潮風と、谷戸の湿気がこもりやすい地形のせいだろうか。引っ越してきたころ、梅雨の終わりに下駄箱を覗いて目を疑った。スニーカーにカビが生えている。大切なハイヒールも白いフワフワしたものが……。湿気に強い家作りをしてもらったが、それでも連日80パーセントを越える湿度には太刀打ちならず。その年以来、梅雨前に下駄箱やクロゼットを念入りに掃除して、湿気取りをあちこち大量に設置。準備万端整えて梅雨入りを待つことにしている。予報では、今年の梅雨入りは平年並みだが、梅雨明けは遅いという。湘南の住民の湿気との闘いは長くなりそうだ。 梅雨の日常は住んでいる人にしかわからないもの。紫陽花を見に訪れる人たちは、雨が降
2024年6月10日読了時間: 5分


「人工音声」
テレビニュースで人工音声が増えている。 アナウンサーが「ここからは人工音声でお伝えします」と断りを入れると、コンピューターの作った声にバトンタッチ。ニュース映像の画面の隅に「AI自動音声でお伝えしています」と表示が出る。数年前までは不自然な棒読みだったが、最近はずいぶん聞きやすくなった。 よく聴いている湘南ビーチFMも、人工音声でのニュースが普通になっている。ちょっと前に名前があるのに気がついた。柔らかい発音でよどみなくニュースを伝え終わると、声は名乗った。 「このニュースは株式会社エーアイのふみのいっせいがお送りしました」 ええっ、ふみのさん?と驚いた私だが、なにを言ってるの、もうあたりまえですよ、と笑われた。そういう時代になっているらしいのだ。 ふみのいっせい。「文野一成」さん、だそうだ。名前がつくと急に人格が備わって実在する人のような気がするから不思議だ。文野さんは人工音声のプロダクションに所属している。プロダクションには声質の異なった何人(?)ものバーチャルアナウンサーがスタンバイして、企業や放送局の依頼で派遣されるという。...
2024年5月10日読了時間: 5分


「お花見」
できれば庭に桜が欲しいね。家を建てるときに話していたが、「桜は枝を広げるので相当広い土地がないと——」と庭の設計士さんにアドバイスされた。桜のためにも植えなくてよかった。 お向かいさんの桜の木を見ているとわかる。南向きの広い庭で、私たちが引っ越してきたときにはすでに大木だったが、それから15年経ってさらにひと回りもふた回りも成長した。 おおらかに四方に枝が伸びた分、年々花も華やかさを増している。うちの玄関を出ると、道を隔てて薄紅色のソメイヨシノが広がっているなんて最高だ。 出がけに旦那さんや奥さんに会うと毎年恒例の挨拶をかわす。 「今年も楽しませてもらってありがとうございます」 「いいえ、花びらが風でそちらにまで散ってすみません」 とんでもない。少しも気にならない。桜は咲いているときだけでなく、ハラハラと散っていく姿も、玄関前の石畳に無数の花びらが貼りついているのも、美しい。 お向かいさんの桜は、娘さんが生まれたときに植えたという。それから何十年も過ぎ、娘さんは結婚し、生まれた子どもさんたちもすっかり大きくなった。家族とともに年月を重ね、見事な
2024年4月10日読了時間: 5分
*ここに掲載したエッセイは、月刊『かまくら春秋』に収録され刊行・発売されている作品です。無断使用・転載・複製を禁じます。


bottom of page


