「うちわの風は」
- 文と写真 星野 知子|Tomoko Hoshino
- 8月17日
- 読了時間: 5分
この夏のはじまりは早かった。六月、梅雨の中休みかと思いきや夏日が続きそのまま真夏の暑さに突入。そしてどうやら残暑厳しく秋の訪れも遅そうだ。いやはや……。
出かけるときには覚悟が必要だ。麦わら帽子と水筒を持参するくらいでは心もとない。冷感マスク、冷感スプレー、冷感タオル……。ちまたには冷感グッズがたくさん並んでいる。
ネッククーラーを買ってみた。冷蔵庫で冷やして首につけるリングだ。太い血管が通っている首を冷やすと全身が涼しくなるという。一、二時間しか持たないが、熱中症になる不安は軽減される。なんだか犬の首輪みたいなので、麻のスカーフを上に巻いて出かけている。
ここ二、三年は携帯の扇風機ハンディファンを持つ若い女性が目につく。歩きながら顔に風を送る優れものだそうだが、熱風があたっているだけのようで本当に涼しいのかしら。ファッションのひとつでもあるようだ。
御成通りですれ違ったデート中の若者も使っていた。二十代前半らしき女性は日傘をさし、ブランドのバッグを手にしている。隣の男性はリュックを背負い、片手にハンディファン。腕を伸ばして風を送っているのは彼女の顔だ。色白の小顔に風がちゃんと当たるべくハンディファンの角度を気にしながら歩く姿はけなげだ。献身的な愛はむくわれるのだろうか。
炎天下の工事現場ではほとんどの職人さんがファンベストを着ている。ベストの中に外気を取り込み熱がこもらないという。見た目は空気でふくらんで暑そうだが、ずいぶん涼しいらしい。
うちに長年来てくれている庭師さんも去年からファンベストを着ている。今はもうこれがないとね、と言いながら、それでも吹き出す汗をふいていた。
十年くらい前まではこんなに暑くなかった。夕方に家の窓を開け放すとひんやりした風が通り抜けて、ふーっとひと息つけた。
徒然草の中でもよく知られる一文に「家の作りやうは、夏をむねとすべし。」がある。「冬はいかなる所にも住まる。暑き比、わろき住居は堪へがたき事なり。」
鎌倉時代末期の京都でも夏は暑かったんですね。
その後に続くのは、「深き水は涼しげなし。浅くて流れたる、遙に涼し。」
(庭の)池や小川が深いのは涼感がなく、浅く流れる水のほうがずっと涼しそうだ、ということだろうか。
夏場は目で見て涼を感じることも大切だ。澄んだせせらぎを眺めると汗がひく。家の中でもガラスの金魚鉢があるだけで、窓にすだれをかけるだけで涼しい気持ちになれる。
うちでは毎年夏の初めに竹製のうちわ立てを出す。今年は藍色のトンボ模様のうちわを置いた。それと軒に風鈴を吊す。うちわと風鈴を目にすると心にそよ風が吹くようだ。リビングに扇風機を置いても涼しさは感じないもので、昔からの夏の小物の効果は確かにある。畳の上にぺたんと座り、うちわであおぐと、人工的ではないやさしい風にほっと心が落ち着く。
夏以外でもうちわはキッチンで役立っている。酢飯を作ったり野菜を茹でたり、出番は多い。夏は枝豆。茹で上がった山ほどの枝豆をザルにとり、大きなうちわであおいで湯気を飛ばす。柔(やわ)なプラスチック製ではなく、渋うちわがいい。柿渋を塗った飴色の和紙は丈夫だ。今使っているのは吉野の鮎料理の老舗「つるべ鮨(すし) 弥助」のもので、さすがに業務用、風の勢いと質が違う。
ずいぶん前にドラマの撮影で、七輪で魚を焼くシーンがあった。子どものころはどの家でも外に七輪を出して焼いていたから私はなつかしかったが、私より十才近く若い女優さんは七輪を知らなかった。珍しそうに七輪を眺め、うちわを手にとまどっていた。こうやるんですよとディレクターがしゃがんでバタバタ風を送って見せたが、彼女はふわふわと蚊を追い払うようにしかできない。右手で小刻みにあおぎながら左手を添えて音を立てる、あの動作は経験がないと様にならない。そのとき七輪とうちわの名コンビは暮らしから消えていくんだなあと思ったが、本当に七輪は過去の調理道具となってしまった。
うちわも、扇風機やエアコンが普及してから涼をとるための道具としては影が薄くなった。そのうちなくなってしまう? そんな心配をしそうだが、いえいえ、うちわは健在だ。
少なくなったとはいえ、今も広告や記念の品でうちわは配られる。集めているわけではないが、各地の花火大会やお祭りのうちわは記念にとってある。毎年いただく鶴岡八幡宮のぼんぼり祭のうちわは、鎌倉にゆかりのある方々の作品で楽しみにしている。時々押し入れから出して、それぞれの年の夏の風を思い返している。

今、うちわが大活躍しているのはコンサートやスポーツ観戦だろう。いわゆる推し活で、ファンの人の名前を書いたり顔写真を貼ったり、派手なデコレーションの「応援うちわ」で盛り上がる。会場であおげば、自分の心にも風が起き、推しの相手に熱い思いを送ることができる。
うちわが作り出す風は、ときには気持ちを静め、ときには高揚させてくれる。いつの時代も変わらない、大切なそよぎだ。
涼やかなうちわというと思い浮かぶのは、黒田清輝の「湖畔」だ。教科書や切手で誰でも目にしている絵だ。湖を背にうちわを持つ浴衣姿の女性。全体が薄い青色で清々しい。私は中学生くらいまで切手を集めていて、「湖畔」は好きな一枚だった。遠くに目をやる女性は髪をすっきり結い、楚々として汗なんてかきそうもなかった。大人になったらこんな涼やかな女性になりたいと密かに思ったものだ。
この夏は、「湖畔」が描かれた箱根の芦ノ湖あたりでも気温は高いのだろう。汗をふきふき、うちわで気ぜわしくあおぐのではなく、涼しい顔で湖畔にたたずむ夏を過ごしてみたい。