top of page
「新 鎌倉その日その日」

新 鎌倉その日その日
星野知子の


「呼吸ではじまる」
体力にはまあ自信がある。テレビの健康番組でよくある体力チェックの類いは、なんでも軽くクリアしていた。 よし、まだ若いね、と思っていたら、先日簡単な動きができなかった。椅子に腰掛け、片足を上げて、もう片方の足だけで立ち上がるというもの。右足ではスッと立てたが、左足だと力が入らず、ドッコイショとやっとだった。 筋肉がおとろえている……。これくらい少し前には苦労せずできたのに。 水泳にずっと通っているし、なるべく歩くようにして、それも早足でと鍛えていたつもりだったが、その程度では加齢の速度に追いつかなくなったということか。 女友だちの、それはもうスクワットが一番よ、との助言で、最近毎日やっている。 年齢に関係なく筋肉は努力すればつくのだそうだ。「筋肉は裏切らない」らしい。 筋トレは呼吸が大切。ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐いて。ただ、黙々とストイックに励むのは苦手だ。なるべく優雅に歌うようにと心がけていたら、なぜかあのメロディが頭の中で聞こえてきた。 タラララッタラ~。ポパイのテーマ音楽だ。子どものころテレビで見ていた。水夫のポパイがたくましい宿敵ブル
3月20日読了時間: 5分


「カラスミ作り」
そろそろお店に並んでいるかなあ、と鮮魚店のガラス戸を開ける。冬の海の幸は見るだけでも楽しい。カキにカニ、寒ブリ、アンコウ。どれも大好物だ。でも、私のお目当てはボラの子(卵)。11月から12月の短い間しか出回らないし、数も少ないから、見つけると即購入する。 毎年、手に入ればボラの子でカラスミを作る。へー、カラスミって素人でも作れるの? と驚かれるが、作れるのです。本格的ではないけれど、そこそこ美味に、いとも簡単にできちゃうのです。 カラスミ作り歴は長い。もう20年近く前からだ。最初は東京・築地の場外市場をブラブラしていたときのこと。午後2時過ぎで買い物客は少なく、どの店も片付けはじめていた。 「あの、ボラの子を買ってくれませんか?」 通りかかった鮮魚店からすがるような声が聞こえた。 ボラという魚の名前は知っていたが、ボラの子をどうやって食べるのだろう。煮物? 若い店員は関心を持った私の表情を見て、 「カラスミは好きですか?」 ときた。もちろん好きだ。ただ、めったに口にすることはない。特別なときにほんの1、2枚ありがたくいただく高級珍味だ。...
2025年12月20日読了時間: 5分


「米賛歌」
そういえば「えの田(でん)」はいつなくなったのだろう? 江ノ電の鎌倉駅、到着ホーム脇に小さな田んぼがあった。畳数枚くらいの大きさで、たしか古代米を作っていた。愛嬌のある案山子(かかし)が立っていて、電車から降りるたびに稲の成長を見るのが楽しみだった。刈り取った稲は天日干しで、鉄道会社の田んぼならでは、干し場が踏切の遮断棒でできていた。今は、一面雑草が生い茂っている。 「えの田」を思い出したのは、久しぶりに生まれ故郷の長岡に帰ったからだ。 八月の初め、新幹線で新潟県に入ると青々とした田んぼが広がっていた。早場米はもう新米が出回っているが、新潟の、それも山間部のコシヒカリの刈り入れは例年九月中旬から十月にかけて。田んぼが黄金色に波立つようになるのはもう少し先だ。 上越新幹線の車窓からの眺め。8月の新潟県魚沼地方 車窓からは瑞々しく見えるが、この夏は早くから猛暑が続き、長い水不足のあとに急激な大雨となった。米の出来が心配だ。稲穂がびっしり重く実をつけて収穫の時期を迎えてほしいと願っている。 米どころ新潟で生まれた私は、コシヒカリを食べて育った。今のよう
2025年9月20日読了時間: 5分


「干支のヘビの話」
「いやあ、ヘビがいちばんむずかしいんですよ」 毎年干支の置物を送ってくれる陶芸家が言っていた。 12の動物のうちトラやウシ、タツは力みなぎる新年にふさわしい。かわいいウサギやネズミはおだやかで平和な気持ちになれる。ヘビは——、どちらのグループでもない。だいたい姿が決まっていない。のばせば長い棒状に、動けばくねくね、止まればとぐろを巻いたりする。どの形も作陶しづらいというか、焼き物だから鎌首をもたげたポーズだとポキッと折れるリスクも大きい。陶芸家泣かせなのだそうだ。 ヘビは12の動物のうちの真ん中、6番目にあたる。ね、うし、とら、う、と順番が決まったのは、説話によると、神様が「元日の朝、1番から12番目まで挨拶に来たものを1年交替で動物の大将にする」とお触れを出し、全国の動物たちが競争した結果だ。数え切れない動物の中で上位12に入るだけでもすごい。その強豪の中で6番目にゴールしたヘビは結構足(?)が速いわけだ。 この説話を知ったのは4、5才のころだ。私は子どものころよく風邪をひいたり扁桃腺が腫れたりして保育園を休んでいた。何日かぶりに登園すると運動
2025年1月21日読了時間: 5分


「ホタル」
初めてホタルを見たのは、7、8才だった。鮮明に覚えている。 私が生まれ育ったのは新潟県長岡市の中心部で、1965年(昭和40年)ころの街中の川はホタルが住めるような環境ではなかった。 夏休みになると、毎年母方の実家でしばらく過ごした。市内から車で30分も走れば田んぼが広がる。祖父の家は山間にあり、近くに雪解け水を運ぶ川が流れていた。 私はひと夏で真っ黒に日焼けした。オニヤンマを追いかけ、目の前をすり抜ける蛇に足がすくみ、近所の子から笹笛の吹き方を教わった。 昔は暑くてもうちわで涼をとるくらいだったが、川に面した部屋は川風が入ってきて涼しかった。私はそこで昼寝をするのが好きだった。 夜も窓は開けっぱなしだった。座敷に布団を敷いて蚊帳を張って寝た。 布団に入ったものの、まだ妹とおしゃべりをしていると、ホタルが1匹、部屋に迷い込んできた。ぽーっと光って消え、またぽーっと光る。 「お母さぁん、お父さぁん、おじいちゃん、おばあちゃん、ホタルがきた!」 蚊帳から飛び出して叫んだ。 ダメだよ大きな声を出しちゃ、ホタルがびっくりするから。そう言われて廊下に出てみ
2024年7月10日読了時間: 5分


「人工音声」
テレビニュースで人工音声が増えている。 アナウンサーが「ここからは人工音声でお伝えします」と断りを入れると、コンピューターの作った声にバトンタッチ。ニュース映像の画面の隅に「AI自動音声でお伝えしています」と表示が出る。数年前までは不自然な棒読みだったが、最近はずいぶん聞きやすくなった。 よく聴いている湘南ビーチFMも、人工音声でのニュースが普通になっている。ちょっと前に名前があるのに気がついた。柔らかい発音でよどみなくニュースを伝え終わると、声は名乗った。 「このニュースは株式会社エーアイのふみのいっせいがお送りしました」 ええっ、ふみのさん?と驚いた私だが、なにを言ってるの、もうあたりまえですよ、と笑われた。そういう時代になっているらしいのだ。 ふみのいっせい。「文野一成」さん、だそうだ。名前がつくと急に人格が備わって実在する人のような気がするから不思議だ。文野さんは人工音声のプロダクションに所属している。プロダクションには声質の異なった何人(?)ものバーチャルアナウンサーがスタンバイして、企業や放送局の依頼で派遣されるという。...
2024年5月10日読了時間: 5分


「古民家」
「どうぞ、靴のままでお上がりください」 古民家レストランの入り口でそう言われると、一瞬、躊躇する。 古い日本家屋を改装したカフェやレストランがブームで、鎌倉にもずいぶん増えた。その多くは靴を履いたままだ。私は心の中ですみません、とつぶやいて板張りの床にそっと足を乗せる。 先日長谷で年上のご夫婦とランチをご一緒したが、奥さんは私が玄関でとまどったのに気づいていた。 「わかりますよ、私も同じですから」 スパゲッティを食べながら、2人でそうそうと頷きあった。 古民家といってもたいていは昭和の建物。私にとっては生まれ育った家とたいして変わらないから、すぐに気持ちが切り替えられない。家に土足で入るのは火事の時か泥棒と決まっていた。 古民家レストランは洋風に改装していても昭和の暮らしが感じ取れる。畳を取り払ったフローリングのワンルーム。そこにテーブルや椅子が軽やかに置かれ広々と気持ちがいい。窓越しに眺める庭は和風のままで、よく手入れされている。照明や壁紙は変えても欄間や書院障子が残されていると、彫りと細工をいつもしげしげと眺めている。その家の人の趣味が表れて
2024年2月10日読了時間: 5分
*ここに掲載したエッセイは、月刊『かまくら春秋』に収録され刊行・発売されている作品です。無断使用・転載・複製を禁じます。


bottom of page


