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「呼吸ではじまる」

  • 執筆者の写真: 文と写真 星野 知子|Tomoko Hoshino
    文と写真 星野 知子|Tomoko Hoshino
  • 2 日前
  • 読了時間: 5分

体力にはまあ自信がある。テレビの健康番組でよくある体力チェックの類いは、なんでも軽くクリアしていた。


よし、まだ若いね、と思っていたら、先日簡単な動きができなかった。椅子に腰掛け、片足を上げて、もう片方の足だけで立ち上がるというもの。右足ではスッと立てたが、左足だと力が入らず、ドッコイショとやっとだった。


筋肉がおとろえている……。これくらい少し前には苦労せずできたのに。

水泳にずっと通っているし、なるべく歩くようにして、それも早足でと鍛えていたつもりだったが、その程度では加齢の速度に追いつかなくなったということか。


女友だちの、それはもうスクワットが一番よ、との助言で、最近毎日やっている。

年齢に関係なく筋肉は努力すればつくのだそうだ。「筋肉は裏切らない」らしい。


筋トレは呼吸が大切。ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐いて。ただ、黙々とストイックに励むのは苦手だ。なるべく優雅に歌うようにと心がけていたら、なぜかあのメロディが頭の中で聞こえてきた。


タラララッタラ~。ポパイのテーマ音楽だ。子どものころテレビで見ていた。水夫のポパイがたくましい宿敵ブルートにやっつけられそうになると、ホウレンソウの缶詰を握りつぶして一気に食べる。たちまち腕の筋肉が盛り上がって強くなり、恋人オリーブを救い出す。あの調子のいいメロディだ。けっして優雅な曲とはいえないが、三日坊主にならないようにタラララッタラ~と口ずさみながら軽やかに屈伸している。


さて、ホウレンソウの缶詰はどんな味だろうとずっと思っていた。おとなになってからアメリカで買ってみたら、くたくたになるまで煮てあって、色は緑というより茶色だ。味は、煮すぎた葉っぱの青臭さのみ。おいしくはない。スープなど料理のための素材だ。ポパイのアニメでアメリカの子どもたちにホウレンソウを食べさせようという宣伝効果は絶大だったらしいが、葉物野菜はさっと茹でて食べる日本では好まれないだろう。


缶詰といえば、「富士山の空気」という名前の缶詰をもらったことがある。


何も入っていないから軽い。空っぽだ。でも、貴重でありがたいような気がするから不思議なものだ。しばらく飾っておいたが、いよいよ開けようということになって、仕事仲間と四人でテーブルを囲んだ。


缶詰の上に顔を寄せて、いいね、開けるよ、と声をかけ、パッカーン! いっせいに息を吸い込む。が、予想どおり何のにおいもしなかった。


ひとりが、なんか気が抜けたね……、とつぶやいておしまい。こういうのはジョーク缶というのだそうだ。楽しめたからまあいいでしょう。


富士山に登ってこその新鮮な空気。それが意外にも、すぐそばで感じられるときがある。真っ白な雪をかぶった姿が、春の訪れとともに少しずつ表情を変えていくころだ。


3月の富士山。芦ノ湖スカイラインから、星野知子撮影
3月の富士山。芦ノ湖スカイラインから筆者撮影

湘南に生まれ育った人には富士山はあってあたりまえかもしれない。でも、鎌倉に越してきた私にとって、生活圏内で普通に出会えるなんて、今でもとびきりの贅沢に思える。


最初のうちは晴れた日に富士山を眺めるだけでうれしかった。10年が過ぎたころから、季節によって天候や時間によってこれほどまでに印象が違うのかと心をうばわれ、今は熱い視線を送っている。


「富士山は1分1秒、同じ姿を見せない」という富士山に魅せられた写真家の言葉があるが、そうよ、そうなのよねえ、とやっとわかるようになってきた。


その富士山が最も〝生きている〟とアピールしているように見えるのが早春だ。


ダウンコートがいらなくなると、大気が少し霞んでくる。富士山は大きな体いっぱいに陽の光を吸い込んで、まとっていた雪を力強く溶かしていく。雄大な息づかい。山の目覚めだ。


雪溶けの風は私の目の前まで届いているはず。そう思って深呼吸。山頂の空気が体の中に染みわたる。なんだか元気になる。


ちょっとしたことで春の訪れを喜びたくなるのは、私が雪国育ちだからだと思う。


新潟の豪雪地帯。長い冬を灰色の空の下で過ごすと、ほんの少しのやわらかな陽ざしに心がときめく。雪の残る田んぼのあぜ道にフキノトウが頭を出しているのに気づくと、ふふっと笑いたくなる。


雪国で暮らす人の春を待つ気持ちは強い。私は太平洋側の温暖な地に暮らしてからずいぶん経つが、その感覚はずっと変わらない。


うれしいことに今年も自生のフキノトウが手に入った。初物だ。


天ぷらやフキ味噌もおいしいが、今回は洋風にフリットで。ふんわり揚げて衣に香りを閉じ込める。ちょっと塩をふって白ワインと一緒にいただくと、なんともいえないほろ苦さ。口の中で春を確かめる。冷たい土の中でじっと我慢していたフキノトウだ。小さな体にエネルギーをため込んでいたのだから苦味も香りもツンと芳ばしい。


冬眠していた熊が目覚めて最初に食べるのがフキノトウなどの山菜だそうだ。アクの強い新芽を食べてデトックス。体の中をきれいにするのだという。


人間もそうなのだろう。タラの芽、コゴミ、セリ。この時期、山菜のほろ苦さを好むのは体が要求しているのかもしれない。


運動も、春先に始めるといいらしい。知り合いのトレーナーさんが言っていた。暖かくなって血流がよくなるころに運動をすると、冬の間にたまった老廃物を排出しやすくなって、新陳代謝が高まるそうだ。


「動物と同じ、休眠モードから活動モードに切り替わるんですよ」

なるほど。それは説得力がある。

ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。歌うようにスクワットを続けよう。


呼吸ではじまる春なのです。


2026 © Hoshino Tomoko

星野知子が描いた�カタツムリのイラスト

Maison d’un Limaçon

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カタツムリのイラストは星野知子の作品です。
© 2026 Hoshino Tomoko 星野知子™

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