「鎌倉ハマグリ」
- 文と写真 星野 知子|Tomoko Hoshino

- 5 時間前
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湘南の海に初めて触れたと実感できたのは、たぶん地引き網漁をしたとき。もうずいぶん前、鎌倉暮らしが始まって間もないころだ。
タイやヒラメがザクザク捕れるかも。茅ヶ崎のサザンビーチでの地引き網漁に、夫と私は大きなクーラーボックスを2つ持参した。
綱引きのように大勢並んで太いロープをたぐり寄せていく。海釣りの経験もない私にはすべてが珍しかった。ふくらんでいる網が浜に上がってくるのを見て歓声をあげ、銀色の魚がピチピチ跳ねる様子に手をたたいた。
大漁だったのか不漁だったのか私にはわからなかったが、いくつもの大バケツが魚で一杯になった。お目当てのタイやヒラメは——、いなかった。小ぶりのきれいなアジばかりだ。
「何が捕れるかわからないのが地引き網よ」
アジが入ったバケツに氷を投げ込みながら漁師さんが言った。
潮焼けした顔、ぶかぶかのサロペットと首の手ぬぐいが決まってる。漁師さんたちはみんな威勢よくテキパキ動いていた。
海の中には無数の生命があって、漁師さんたちは私には見えない海の世界をよく知っているのだなあ、とこれまでとちがった思いで海を眺めた。
「さ、たくさん持って帰ってよ」
年配の漁師さんがクーラーボックスにドドッとアジを入れてくれた。
家に戻ってからが大変だった。何十匹ものアジと格闘だ。ひたすら捌(さば)くのみ。小さくても一匹一匹に頭も内臓もゼイゴもある。慣れてないから時間のかかること。塩焼き、煮魚、干物につみれづくりと、暗くなるまでキッチンで立ち通しだった。
それから20年近くが経ち、たいていの魚は手際よく捌けるようになった。得意でも好きでもないけれど、旬のおいしい魚を食べるためだ。というのは、坂ノ下から船を出す漁師の岡野さんと知り合いになり、時々捕れたての海の幸を届けてもらっている。捌くのは自分だから、数をこなすうちに上達した。
魚の種類や旬の時期にも詳しくなった。5月に旬を迎えるのは、クロダイやスズキ、サザエにタコ、そろそろキスも出始めるはず。
ところが、ここ数年連絡が少なくなっている。
捕れないんですよ、と岡野さんの顔が曇る。海の中で徐々に異変が起きているらしい。
わかりやすいのは、海藻が減ったこと。海水温の上昇や水質などさまざまな理由で海藻が減ると、海藻をエサにしているサザエやアワビが減少。甲殻類を食べるタコも姿を見せなくなる。それに、海中に茂る海藻はカサゴなどの住みかだから、少なくなれば稚魚たちの隠れる場所がなくなって、捕食されやすくなる。
漁師さんたちは魚や貝を増やそうといろいろな取り組みをしているが、ハマグリを畜養するのもそのひとつだ。1センチの稚貝を放流して3年くらいで食べられる大きさになるという。6センチに満たない貝は海に戻す。5年くらい前から本格的に始めて、鎌倉ブランドとしてハマグリを出荷できるようになってきた。

ハマグリは3月の桃の節句のころが旬とされているが、地域によって異なる。鎌倉では産卵が済む6月くらいになると身がやせてしまうので、それまでの栄養をたっぷりため込んだ貝が食べごろ。今がおいしい季節だ。
やけにハマグリにくわしくなった私だが、おとなになるまで見たこともなかった。生まれ育った新潟ではハマグリは出回っていなかったし、流通もよくなかった。
初めて食べたのは江戸前のお寿司屋さんだ。寿司桶に煮ハマグリが一貫入っていた。甘辛くて、ふっくら歯ごたえがよくて、これがハマグリかあ、と感動した。カウンターのお客さんが「次、煮ハマね」、と注文するのを聞いて、ツウは煮ハマと言うのだ、と知った。今でも煮ハマなんて気安く口に出せない。ハマグリはシジミやアサリといった仲のいい友だち感覚の貝ではない。ちょっと近寄りがたいイメージだ。それでも鎌倉で育ったハマグリを食べるようになって、少しずつ親しくなってきている。
ハマグリ漁は、ウェットスーツで腰まで海に浸かり、金属の熊手のような道具を使う。貝はエサになるプランクトンのいる場所に移動するから、その日どこに群れがいるかわからない。波をかぶりながら海の底を掻き続ける作業は、端(はた)で見ているより厳しそうだ。
そうして採れるのが鎌倉ブランドのハマグリだ。とにかく大きい。お吸い物にするとお椀に収まらないほどだ。我が家では焼くか酒蒸しにする。凝った料理もあるが、シンプルに素材の良さを味わっている。
貝から出る出汁だけで、海の塩だけで、充分だ。白く濁った潮汁を最後まで飲んで、殻にくっついている貝柱もきれいにとってごちそうさま。満たされる。
殻も捨てがたい。すべすべのさわり心地、カーブを描いた形が美しい。食べ終わった貝は洗って乾かしてとってある。小物入れかオブジェで使いたい。夫は「貝合わせ」のように絵を描くつもりらしい。このまま捨てないでいると、数年後には平安貴族のように「貝合わせ」の遊びができそうだ。
対になっている貝以外はぴったり合わない。ハマグリは夫婦和合の象徴、縁起物だ。
結婚祝いにいただいた雅(みやび)な「貝合わせ」の飾り物がある。金や華やかな色が施され、相生(あいおい)の松と海を背景に一枚は高砂の尉(じょう)、もう一枚は姥(うば)が描かれている。末永く仲良くお幸せに、という願いが込められている。結婚記念日は5月なので、そろそろ飾りましょうか。
ハマグリも末永く鎌倉の海で育ってもらいたい。将来は放流ではなく鎌倉生まれのハマグリが復活することを願っている。
2026 © Hoshino Tomoko


