top of page

星野知子の
新 鎌倉その日その日
キーワード


「鎌倉ハマグリ」
湘南の海に初めて触れたと実感できたのは、たぶん地引き網漁をしたとき。もうずいぶん前、鎌倉暮らしが始まって間もないころだ。 タイやヒラメがザクザク捕れるかも。茅ヶ崎のサザンビーチでの地引き網漁に、夫と私は大きなクーラーボックスを2つ持参した。 綱引きのように大勢並んで太いロープをたぐり寄せていく。海釣りの経験もない私にはすべてが珍しかった。ふくらんでいる網が浜に上がってくるのを見て歓声をあげ、銀色の魚がピチピチ跳ねる様子に手をたたいた。 大漁だったのか不漁だったのか私にはわからなかったが、いくつもの大バケツが魚で一杯になった。お目当てのタイやヒラメは——、いなかった。小ぶりのきれいなアジばかりだ。 「何が捕れるかわからないのが地引き網よ」 アジが入ったバケツに氷を投げ込みながら漁師さんが言った。 潮焼けした顔、ぶかぶかのサロペットと首の手ぬぐいが決まってる。漁師さんたちはみんな威勢よくテキパキ動いていた。 海の中には無数の生命があって、漁師さんたちは私には見えない海の世界をよく知っているのだなあ、とこれまでとちがった思いで海を眺めた。 「さ、たくさ
5月20日読了時間: 5分


「呼吸ではじまる」
体力にはまあ自信がある。テレビの健康番組でよくある体力チェックの類いは、なんでも軽くクリアしていた。 よし、まだ若いね、と思っていたら、先日簡単な動きができなかった。椅子に腰掛け、片足を上げて、もう片方の足だけで立ち上がるというもの。右足ではスッと立てたが、左足だと力が入らず、ドッコイショとやっとだった。 筋肉がおとろえている……。これくらい少し前には苦労せずできたのに。 水泳にずっと通っているし、なるべく歩くようにして、それも早足でと鍛えていたつもりだったが、その程度では加齢の速度に追いつかなくなったということか。 女友だちの、それはもうスクワットが一番よ、との助言で、最近毎日やっている。 年齢に関係なく筋肉は努力すればつくのだそうだ。「筋肉は裏切らない」らしい。 筋トレは呼吸が大切。ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐いて。ただ、黙々とストイックに励むのは苦手だ。なるべく優雅に歌うようにと心がけていたら、なぜかあのメロディが頭の中で聞こえてきた。 タラララッタラ~。ポパイのテーマ音楽だ。子どものころテレビで見ていた。水夫のポパイがたくましい宿敵ブル
3月20日読了時間: 5分


「カラスミ作り」
そろそろお店に並んでいるかなあ、と鮮魚店のガラス戸を開ける。冬の海の幸は見るだけでも楽しい。カキにカニ、寒ブリ、アンコウ。どれも大好物だ。でも、私のお目当てはボラの子(卵)。11月から12月の短い間しか出回らないし、数も少ないから、見つけると即購入する。 毎年、手に入ればボラの子でカラスミを作る。へー、カラスミって素人でも作れるの? と驚かれるが、作れるのです。本格的ではないけれど、そこそこ美味に、いとも簡単にできちゃうのです。 カラスミ作り歴は長い。もう20年近く前からだ。最初は東京・築地の場外市場をブラブラしていたときのこと。午後2時過ぎで買い物客は少なく、どの店も片付けはじめていた。 「あの、ボラの子を買ってくれませんか?」 通りかかった鮮魚店からすがるような声が聞こえた。 ボラという魚の名前は知っていたが、ボラの子をどうやって食べるのだろう。煮物? 若い店員は関心を持った私の表情を見て、 「カラスミは好きですか?」 ときた。もちろん好きだ。ただ、めったに口にすることはない。特別なときにほんの1、2枚ありがたくいただく高級珍味だ。...
2025年12月20日読了時間: 5分


「若布とか海苔とか」
夏の湘南もいいけれど、暮らしてみて思うのは、冬がすばらしい。キリリと冷たい風に青い空。日差しは強く、海は澄んだエメラルド色に変わる。その向こうに真っ白な富士山が眺められるのだから、思わず深呼吸。遠くに住む友人たちには冬に遊びに来てよ、といつも言っている。 ダウンにマフラー、しっかり日焼け止めクリームを塗って海辺を散歩する。サーファーやランナー。はしゃぐ子どもたち。尻尾をふって波を追いかけるイヌ。寒くても浜は元気だ。 2月になるとあちこちで見られるのが若布(わかめ)干しだ。浜に組んだ大きな干し場で、細長い若布が潮風になびいている。 ああ、今年もはじまりましたね。そろそろ若布のしゃぶしゃぶの季節、と思わずにんまりする。沸かした鍋のお湯にヌメヌメした黒い海藻を浸したとたん、目の覚めるような緑色になる。この瞬間、わかっていても毎年感動する。新緑を思わせる色は、もうすぐ来る春を感じてときめいてくる。 今では見なれている若布干しだが、鎌倉に引っ越してきたときは、「なに?あれは!」とかなり驚いた。砂浜に巨大な洗濯物干し場(?)が出現し、ぶら下がっているのは無数
2025年2月21日読了時間: 5分


「雨傘」
ムシムシ、ジメジメ、そろそろかなあという時期になると、スーパーやドラッグストアでは湿気対策グッズが山積みになる。梅雨入り間近。顆粒状の除湿剤や「水がたまったらおとりかえ」の容器タイプ、引き出し用のシートタイプ。様々な種類の商品は、東京の店よりずっと数が多い。みんな苦労しているのだ。 鎌倉は湿度が高いとは聞いていたが、これほどまでとは思っていなかった。海から入る潮風と、谷戸の湿気がこもりやすい地形のせいだろうか。引っ越してきたころ、梅雨の終わりに下駄箱を覗いて目を疑った。スニーカーにカビが生えている。大切なハイヒールも白いフワフワしたものが……。湿気に強い家作りをしてもらったが、それでも連日80パーセントを越える湿度には太刀打ちならず。その年以来、梅雨前に下駄箱やクロゼットを念入りに掃除して、湿気取りをあちこち大量に設置。準備万端整えて梅雨入りを待つことにしている。予報では、今年の梅雨入りは平年並みだが、梅雨明けは遅いという。湘南の住民の湿気との闘いは長くなりそうだ。 梅雨の日常は住んでいる人にしかわからないもの。紫陽花を見に訪れる人たちは、雨が降
2024年6月10日読了時間: 5分


「人工音声」
テレビニュースで人工音声が増えている。 アナウンサーが「ここからは人工音声でお伝えします」と断りを入れると、コンピューターの作った声にバトンタッチ。ニュース映像の画面の隅に「AI自動音声でお伝えしています」と表示が出る。数年前までは不自然な棒読みだったが、最近はずいぶん聞きやすくなった。 よく聴いている湘南ビーチFMも、人工音声でのニュースが普通になっている。ちょっと前に名前があるのに気がついた。柔らかい発音でよどみなくニュースを伝え終わると、声は名乗った。 「このニュースは株式会社エーアイのふみのいっせいがお送りしました」 ええっ、ふみのさん?と驚いた私だが、なにを言ってるの、もうあたりまえですよ、と笑われた。そういう時代になっているらしいのだ。 ふみのいっせい。「文野一成」さん、だそうだ。名前がつくと急に人格が備わって実在する人のような気がするから不思議だ。文野さんは人工音声のプロダクションに所属している。プロダクションには声質の異なった何人(?)ものバーチャルアナウンサーがスタンバイして、企業や放送局の依頼で派遣されるという。...
2024年5月10日読了時間: 5分
*ここに掲載したエッセイは、月刊『かまくら春秋』に収録され刊行・発売されている作品です。無断使用・転載・複製を禁じます。


bottom of page


